50歳が近づくと、若い人の成長スピードに驚くことがあります。
AIもどんどん進化する。新しい技術も次々出てくる。
その中で、「自分が積み上げてきたものに意味はあるのだろうか」と思う瞬間があります。
でも最近、ぼくは逆だと思うようになりました。AI時代だからこそ、若い頃の失敗や遠回りが価値になる。今回はそんな話です。
年に一度、医学部4年生に向けて、医学英語の授業をしています。
一応、授業のタイトルは「世界で医師として働く」。
少し大げさなタイトルです。内容としては、医学英語そのものを教えるというより、「英語ができると、こんな働き方も見えてくるよ」という話に近い。
ただ、この手の話は、どうしても自慢話になりやすい。
「海外で働きました」
「こんな手術をしました」
「こんな国で活躍しました」
もちろん、それ自体はすごいことです。ぼく自身、学生時代にそういう話を聞いて、素直に「かっこいいな」と思った記憶があります。
でも、いまの学生に同じ話をそのまましても、たぶん届き方は少し違う。
「すごいですね」で終わってしまうかもしれない。あるいは、「時代が違いますよね」と思われるかもしれない。
だから、ぼくが授業で話すのは、きらびやかな成功体験ではありません。
むしろ、いかに自分が英語ができなかったか、という話です。
英語ができなかったぼくが、海外で働くまで
ぼくは、もともと英語が得意ではありませんでした。
むしろ、かなり苦手。
大学受験のときも、英語は好きじゃなかったです。第一志望の大学は、センター試験の英語が大きく反映される仕組みだったのですが、そこでうまくいかず、結局落ちてしまいました。
医学部に入ってからも、英語ができるタイプではありませんでした。
そんな中、6年生のとき、海外実習に応募する機会がありました。枠は5人。応募したのは6人。
普通に考えれば、落ちる確率はかなり低い。
でも、ぼくは落ちました。
理由はシンプルです。英語ができなかったからです。
いま振り返ると、なかなか衝撃的な出来事です。
「海外で臨床をやってみたい」
「海外で医師として働けたらかっこいい」
そんな漠然とした憧れはありました。でも、その時点では、現実的な準備も実力も足りていませんでした。
憧れだけでは、扉は開かない。
そのことを、突きつけられた気がします。
遠回りに見える時間にも、意味は残る
そこからすぐに英語ができるようになったわけではありません。
医師として働き始めてからも、英語の勉強はずっと後回しになりがち……
仕事は忙しい。子育てもある。家族との時間もある。自分の専門領域の勉強もしなければいけない。
「英語をやらなきゃ」と思っても、現実はそんなに簡単ではありません。
当直明けに眠い目をこすりながら英語教室へ行ったこともあります。週末に何度も何度もIELTSの受験をしていました。英会話に行きたいと思っても、家族との時間をどうするかという問題もありました。
30代半ばには、思い切って3か月ほど休職し、英語のためだけに海外へ行きました。
収入は止まる。生活費はかかる。決して小さな投資ではありません。
それでも、その時間があったからこそ、数年後にカナダで臨床を学ぶ機会につながりました。
かなり遠回りだったと思います。
もっと早くやっておけばよかったとも思います。
高校生の頃、親から「オーストラリアに行ってみないか」と声をかけられたこともありました。でも、そのときは怖くて行けなかった。
もし、あのとき行っていたら、違う人生になっていたかもしれない。
でも、行かなかった自分も含めて、いまの自分です。
成功談より、失敗談の方が人を動かす
授業でこういう話をすると、学生さんから意外な反応をもらいます。
「勇気をもらいました」
「できなかった話の方が、自分にも近く感じました」
「完璧じゃなくてもいいんだと思えました」
これは、ぼくにとってかなり大事な気づきでした。
人は、きれいな成功談だけでは動きません。
もちろん、成功した人の話には価値があります。でも、あまりに遠い成功談は、ときに自分とは関係のない物語になってしまう。
一方で、失敗談には距離の近さがあります。
「この人も、最初からできたわけではない」
「苦手なままでも、なんとか続けてきたんだ」
「自分も、まだ途中でいいのかもしれない」
そう思える余白がある。
成功に再現性はないかもしれません。でも、失敗にはある程度のパターンがあります。
準備不足
課題の先送り
根拠のない過信
怖さからの回避
環境づくりの失敗
他人の失敗を知ることは、自分の未来の失敗を減らすヒントになります。
だからこそ、若い人に向けて話すなら、武勇伝よりも失敗談の方が、実は役に立つことがあるのだと思い、いつもできるだけ共有するようにしています。
苦手は、時間が経つとストーリーになる
若い頃の「できない」は、その瞬間にはただのコンプレックスです。
英語ができない
人前で話せない
論文が読めない
発信できない
新しいテクノロジーについていけない
そのときは、本当に嫌です。
周りと比べて落ち込むし、自分には向いていないのではないかと思う。
でも、10年、20年経つと、不思議なことが起こります。
その「できなかったこと」が、ストーリーになる。
最初から英語が得意だった人が海外で働く話と、英語が苦手だった人が遠回りして海外で働く話では、意味が違います。
どちらが偉いという話ではありません。
ただ、後者には「できない側の人に届く言葉」がある。
これは、若い頃にはなかなか気づけない資産です。
コンプレックスは、時間をかけると、誰かに手渡せる経験になります。
失敗は、言語化できるようになると、次の世代への地図になります。
遠回りは、あとから見ると、その人にしか語れない道になります。
AI時代に、過去を持っていることの価値
最近は、AIのおかげで英語の論文もかなり読みやすくなりました。
翻訳もできる。要約もできる。専門用語の確認もできる。
昔に比べれば、英語そのもののハードルはかなり下がっています。
では、もう英語を勉強しなくていいのか。
ぼくは、そうは思いません。
AIはとても便利です。でも、AIが出してきた翻訳や要約をどう解釈するかは、結局こちら側の問題です。
その文章の背景に何があるのか。
どこに違和感があるのか。
どの表現に含みがあるのか。
その論文が、自分の専門領域においてどれくらい重要なのか。
そこは、単なる語学力だけではなく、経験と文脈理解の問題です。
そして、この「文脈」は、時間をかけて積み上がっていきます。
40代後半になって感じるのは、若い世代と同じフィールドで、同じスピードだけを武器に戦うのは難しい。
若い人は吸収が早い。新しいツールにも慣れるのが早い。体力もある。
だからこそ、ぼくらの世代は、彼らが持っていないものを武器にする必要があります。
それは、過去を知っていることです。
昔はどうだったのか。
なぜ今の形になったのか。
何が変わり、何が変わっていないのか。
過去の一点と、現在の一点を結ぶと、その延長線上に未来が少し見えてきます。
これは、長くやってきた人間にしか持てない視点です。
「できなかった自分」を、捨てなくていい
若い頃にできなかった黒歴史は、消したくなります。
なかったことにしたい。
見せたくない。
できる人のように振る舞いたい。
でも、年齢を重ねるほど思います。
できなかった自分を、捨てなくていい。
むしろ、その自分がいるから、いま話せることがある。
英語ができなかったから、英語が苦手な学生の気持ちが少しはわかる。
遠回りしたから、最短距離で進めない人に言葉をかけられる。
怖くて海外に行かなかった自分がいるから、挑戦の前で立ち止まる人の感覚もわかる。
若い頃の「できない」は、その瞬間には弱点です。
でも、時間とともに、それは資産になります。
もちろん、ただ放置していれば資産になるわけではありません。
向き合うこと。
少しずつ続けること。
失敗した意味を、あとから言語化すること。
そのプロセスがあって初めて、「できなかったこと」は、自分だけの経験値になるのだと思います。
あなたにも、昔は苦手だったけれど、いま振り返ると自分を支えてくれているものはありますか?
よければ、コメントで聞かせてください。
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「コンプレックスは時間をかけると、誰かに手渡せる経験になる」という言葉に、自身の歩みが深く重なりました。
私はかつて人に説明することが大の苦手でしたが、本を読み、泥臭く実践を積み重ねるうちに、今では人に説明することや文章を書くことが苦ではなくなりました。最初からスマートにできたわけではないからこそ、その試行錯誤のプロセスが今の自分の言葉の原動力になっているのだと、この記事を読んで改めて腑に落ちました。